2014.02.27
▲金箔が施された鬼瓦
▲鬼瓦復元図
▲復元金箔瓦(個人蔵)
大垣城よもやま話 その5
2月も終わりですね。「いよいよ春がやってくる」のは嬉しいのですが、同時に飛散する杉花粉やPM2.5はこまりものです。天気予報に注意して対策をしっかりしたいものですね。
さて、前々回の「よもやま話 3」で大垣城の瓦のお話をしましたが、今回はその「瓦」のお話「その2」です。
金箔瓦のお話です。
金箔瓦の出土
昭和41年、大垣城の乾隅櫓が復元して建設されました。乾隅櫓は本丸腰郭の北西の隅にあった二重の櫓ですが、明治の大垣城廃城の時、破却され城郭絵図や古写真でしか知ることができません。この乾隅櫓を再建するとき、土中から「金箔が施された鬼瓦」が発掘されました。この鬼瓦はその形から「鬼面」ではなく、表面に枝と葉がみられ「桃面」であると考えられます。金箔はこの枝と葉の部分に残っていました。
金箔瓦は織田・豊臣一門だけが使用したと言われています。信長が安土城天守に金箔を使用したのはよく知られているところですが、数年前、岐阜城の信長館跡からも金箔瓦が出土し「安土城以前の最古の金箔瓦」として話題になりましたね。
天正年間以降の大垣城主を見てみますと、金箔瓦にかかわる城主として、三好秀次が天正13年に近江八幡城で、木下秀長が和歌山城で、また羽柴秀勝が丹波亀山城でそれぞれ金箔瓦を葺いています。
そこで、豊臣一族で大垣城主になった人物をみると、秀次・秀長が天正12年、秀勝が天正17年に入城していますので、現時点では大垣城で金箔瓦を使用したのは羽柴秀勝が有力であるとされています。(以上、参考資料「大垣城の歴史」大垣市文化財保護協会発刊)
この瓦は、現在「郷土館」(大垣城から西へ徒歩3分)に展示されています。写真の通り、桃の形を彫刻された一部分のみが遺存するのみで全体の形を確認することはできませんが、推定復元図(写真)のごとく、斬新なデザインの豪華な金箔瓦であったことが窺えます。城郭建築にかけた武将のロマンを感じさせますね。
※参考に、2010年開催された展覧会「細工瓦の伝統美~失われゆく技の真髄」に展示された「大垣城金箔瓦(復元)」を紹介しておきます。
大 垣 城