2013.12.12
▲戸田氏定肖像画
▲紫糸素懸威紋柄袖二枚胴具足
▲忠臣蔵関連書籍
江戸時代 大垣城ではこんなこともありました!
~師走に入ると思い起こされること~
今年もいよいよ12月に入りました。
12月といえば・・・日本人なら思い起こすのは・・・
そう!「忠臣蔵」ですね。
元禄15年12月14日深夜、吉良邸に討ち入った赤穂義士の物語ですね。
忠臣蔵と大垣城・・・実は大いに関係があるのです。
今日はそんなお話を少し・・・。
時は元禄14年3月14日、江戸城松の廊下で、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介に斬りつけるという刃傷事件が起こった。
内匠頭は即日切腹。
この日、江戸城内に詰めていた大垣藩戸田家4代藩主戸田氏定に大目付仙石伯耆守から、「内匠頭家来、騒動いたさぬよう申し付けよ」と命がくだった。
大垣藩主戸田氏定と赤穂藩主浅野内匠頭はお互いの母親が姉妹という、従兄弟どうしだったのである。
また、幕府にとって都合のいいことに、戸田氏は三河以来の譜代大名であった。
浅野氏は外様大名である。
幕府は戸田氏を大いに利用することになる。
氏定は裏方の重責を次々にはたしていく。
内匠頭の遺骸引き取りと密葬、藩邸の明け渡し、そして赤穂城の明け渡しの使者の任が命じられ、重臣を赤穂に向かわせる。
氏定は家老大石内蔵助らに、平穏に城を明け渡すよう説得を重ねた。
刃傷事件から1か月後、幕府の赤穂城接収は静穏のうちに終了した。
しかし、いかに譜代の大名で幕府の命令とはいえ、大垣と赤穂はいわば親戚関係にあったわけで、氏定の心中、複雑なものがあったのではないかと推察されますね
ところで、赤穂城明け渡しの使者として赤穂に赴いた重臣(戸田源五兵衛・組頭850石)が有事に備えて持参した甲冑が大垣城に残っています。
〈紫糸素懸威紋柄袖二枚胴具足~1階展示室〉この甲冑をみていると、300年以上を経た元禄の昔の出来事をかたりかけてくるようです。
討ち入りにいたるまで、いくつかの伝説が伝わっています。大石内蔵助が京都山科にいたころ、身をやつして深夜大垣城を訪れ、浅野家再興のことなどを相談したとか・・・ご来城のおりには、ぜひそんなことにも思いを馳せてご覧いただければありがたいと思います。
大垣藩と忠臣蔵・・・もっと詳しく!という方は・・・
関連書籍「忠臣蔵大垣物語」「大垣藩と忠臣蔵~赤穂開城までの役割」(いずれも大垣市文化財保護協会発行)・・・をどうぞ。