2014.03.24
▲関ヶ原合戦屏風に描かれた大垣城
▲たらい舟に乗って大垣城を脱出(おあむ物語より)
▲水門川を下るたらい舟
大垣城よもやま話 その7
関ヶ原合戦~大垣城の戦いとたらい舟
いよいよ本格的な春の到来ですね。暖かくなってきました。お彼岸を過ぎればもう寒い日はなさそうです。早咲きの桜も開花しました。ところで、今回は大垣の風物詩「たらい舟」ゆかりのお話です。話は遠く戦国の世、関ヶ原合戦の日にさかのぼります。
○大垣城の戦い
西軍の本陣となった大垣城とその周辺には石田三成のほかに小西行長・島津義弘・宇喜多秀家らが布陣しました。まさに「天下分け目の大垣城の戦い」が始まろうとしていましたが、9月14日夜、徳川家康は大垣城攻略ではなく、三成の居城佐和山城を攻め、大阪へ向かうという情報を流しました。そこで、西軍の本隊は大垣城に守備の兵を残して関ヶ原へ先回りすることになったのです。関ヶ原の戦いの結末は皆さんご存知のように一日で東軍の圧倒的勝利ということで決着しましたが、大垣城ではその後も一週間も戦いが続きました。今回のお話は、その「大垣城の戦い」が舞台です。
○おあむ物語
大垣城に伝わる物語があります。「おあむ物語」は、石田三成の家臣山田去暦の娘おあむが主人公の体験記ですが、父とともに大垣城内で迎えた関ヶ原の戦いのことを老年になってから語ったものとされています。戦いの舞台となった大垣城内では、戦いの場面だけでなく、女性たちが場外へ逃れようとする様子が描かれています。その様子を少しだけ原文で紹介しましょう。
・・・(前略)その日、我親父のもち口へ矢文来りて「去暦事は家康様の御手習の御師匠申された訳のある者じゃ程に、城を遁れたくば御たすけあるべし。何方へなりとも落ち候へ、路次の煩いも候まじ、諸手へ仰せおいた」との事でおじゃった。城は翌日中攻め落さるるとて、皆々力を落して我等も明日は失はれ候はんと心細くなっておじゃった。親父ひそかに天守へ参られて、此方へ来いとて、母人・我等をもつれて、北の堀脇より梯子を懸けて、つり縄にて下へつり下げ、さて盥に乗りて堀を向こうへ渉りておじゃった。その人数は親達二人、わらはとおとな四人ばかり、その外家来はそのままにおじゃった・・・・(後略)
この「盥(たらい)に乗って大垣城から逃れたおあむ様」の物語にちなんで開催されているのが「たらい舟」です。関ヶ原合戦の昔に思いを馳せ、たらい舟で新緑の水門川(大垣城外堀)を下るというのはいかがでしょうか。それにしても、石田三成に仕える武将が、家来の他に妻や娘・息子を連れて籠城しているわけで、我が国の戦場の実際の姿を知りたいものですね。
もっと詳しく!という方は「おあむ物語」(岐阜県郷土資料研究協議会発行)をどうぞ。
大 垣 城