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大垣城よもやま話

2014.02.01

▲再建前の国宝大垣城

▲文政七年大垣城天守古図

 大垣城よもやま話 その1



  2月になりました。相変わらず厳しい寒さが続いていますが、節分も近づいて、陽だまりでは「小さな春」が感じられるようになりました。

 桜の季節はまだまだ先ですが、大垣公園の「桜情報」をお知らせしながら、大垣城の「おもしろ情報」をいくつかご紹介していきましょう。

 第1回の今回は大垣城の天守のお話です。


 

 四層四階の天守


  大垣城は大変珍しい「四層四階」のお城です。

 全国城郭管理協議会出版の「城のしおり」を見てみると、「四層四階」のお城は、「大垣城」以外には愛媛県大洲市の「大洲城」ただひとつです。

 天下の名城「姫路城」は五層六階です。

 「高知城」は三層六階、「彦根城」は三層三階です。

 因みに「四層」とは屋根が「四重」であること、「四階」はその名のとおり内部が「四階」になっているということですね。 

 四重天守がほとんどないのは、「四」は「死」に通じ縁起がわるいからとか・・・しかし「四」→「死」といったような縁起を担ぐようになったのは、ずっと後の世からだという説も・・・。

  天守を何層にするのかは、おおよそはその藩の「石高」がものをいったとか、しかしお大名たちは見栄もあって、少しでも高い天守が欲しかったそうですよ。

 大垣のお殿様も三層よりは少しでも高い「四層」にしたかったのかも・・・真相はわかりませんが。

 それでも、幕府に提出された大垣城絵図には三層の天守が描かれています。

 幕府への遠慮もあったのでしょうか?

  ちなみに、この大垣城も関ヶ原合戦当時は、二階建ての上に望楼をのせた「三層」のお城だったようです。

 「四層」に改築されたのは1620年、松平甲斐守忠良が城主のときです。

 三階の望楼を取り壊し、それまであった二階の上に三階、四階を付け足したのではないかと言われています。

 このとき、白漆喰の総塗り籠め造りの白亜に輝く「四層四階」の層塔型天守が完成し、それが昭和20年、空襲で焼失するまで残ったわけです。

 戦災で焼失してしまったのは誠に残念なことでした。

現在の天守は昭和34年の再建ですので、鉄筋コンクリート造りですが、当時の図面や写真を元に再建したため、姿・形、大きさ等は1620年創建当時そのままの姿を現在に伝えております。